進化するハラ揉み

「ハラ揉み」がどのようにして生まれたか、それは創始者 三宅弘晃の人間性について語らねばならないだろう。

 

 

日本には古来から按腹(あんぷく)というおなかを揉む治療技術が存在し、今もその技術を習得しようとする者がある。大阪外国語大学(現:大阪大学)卒業後、株式会社コマツを4年で退社、いわゆるエリートの道を嫌い、周囲の反対を押し切って整体の道を志した三宅もまた、「新日本延命医学療法」の流れをくむ「腹揉み」の技術を柔道整復師であった櫻井寛先生から学んだ。

 

その「腹揉み」が「ハラ揉み」へと進化したのはいつのころだったか。

 

ハラ揉みは腹を揉むのではない、肚であり胎であり、そうしてハラに行き着いたのである。このハラ揉みの技術は、三宅がこの世に生きる限り進化を止めることはない。

 

 

ハラ揉み わごいち
ハラ揉み わごいち

 

 

三宅は1972年、滋賀県に生まれた。3歳から19歳までの人間形成の元となった時を、京都府亀岡市で過ごした。

冬は濃密な霧が視野の先を白く覆い隠し、夏には瑠璃色の保津川が観光客でにぎわいを見せる。三宅の学生当時は、その悠々とした保津川を見下ろすように、現在はトロッコ列車が走る細い線路をディーゼル機関車が音を立てながら走っていたそうである。育った田舎の環境は、三宅の思想に大きく関与するように思う。

 

 

厳格な実父のもと、長男として奇特な教育を受けたと聞き及ぶ。しかしながら、運動も勉強も決して一番にはならずだった。なれなかったのかならなかったのか、本人は「昔から何でも遅いんや」と言う。

 

まず一旦なぜかを考える、大元は何なのかを考える思慮深さの芽は、この頃から備わっていたようだ。幼少から実父にスパルタ的に鍛えられたマラソン、保津川の対岸にある神社まで走っては一人、考える時間を持った。三宅、思春期の話である。

 

 

保津川の対岸の神社
保津川の対岸の神社

 

 

本来、三宅の人生は負けっぱなしであったかもしれない。しかしハラに関してのみ言えば、負けず嫌いさは異常なまでに強いようだ。一番でなくては気のすまぬところがある。自分が命を懸けて志すことに対して、疑問とアイデアは尽きることはないようだ。枯れることのない泉のごとく、三宅のハラ揉みの技術は進化していった。

 

 

山から見下ろした保津川
山から見下ろした保津川

 

 

一つ、三宅の性格を象徴する出来事を紹介する。

 

2002年1月、整体院を引き継ぎ開業することになった直後、院の乗っ取りにあいかけたことがあった。新日本延命医学療法(以後、延命学と記す)を生んだ先生の継承者と仲介者によっての騒動であった。当時、延命学継承者と対峙した三宅は、

 

「もう本物の延命学はこの世にない。あとは時代と共に劣化していく延命学があるだけだ。そこに自分の人生を投げ出してどうなる。俺は自分で道を切り開く。宮原一男先生を超える整体を作り上げる。俺は俺を信じる。」

 

そう心に誓い、完全独立開業の道を歩むこととなった。

2002年、初夏のことである。

 

 

わごいちでの三宅
わごいちでの三宅

 

 

三宅の自分自身の実力を信じるだけの努力を垣間見るエピソードがある。

 

一つは、ようやく授かった愛娘の誕生秘話である。

 

 

無事に妻のおなかの中で育ち臨月も迫る中、どうにも逆子が直らない。自然出産は諦め帝王切開をしなければならないという医師の期限が迫る中、三宅は己の指先の感覚だけを頼りに自宅で外回転術(お腹に手を、添えお腹の外から子宮内の赤ちゃんをぐるりと回転させる方法)を試み、逆子を直した。

 

三宅が整体師を生業にした8年目、2009年の話になる。当時のことを振り返り、「もし子や妻に何かあったら、整体師を辞める覚悟だった。」と吐露したが、その台詞にはもしもの時の覚悟を越える、確信に似た導きの元の行動、つまりは三宅の整体術であったように第三者には映る。

 

結婚当初から飼っているチンチラ
結婚当初から飼っているチンチラ

 

 

もう一つは2015年、三宅44歳目前の逸話である。

 

三宅はまた、好奇心旺盛でもある。好奇心と言えば聞こえは良いが、多少無茶な遊び心とでも言おうか。その好奇心による行動(単に20歳くらいの若い男性に挑み、公園の遊具の垂直にそびえる坂を走って登ろうとしたのだ...)で、左足の距骨が粉砕した。足首の真ん中にある、体重を支える骨である。

 

翌日整形外科でレントゲンとCTを撮り、ボルトを入れる手術とギブス固定が必須、それでも骨壊死のリスクは免れない、とまで言われたが全ての治療を拒否。独自療法を選択したのは、三宅自身の持つ理論への自信と、一般的正論への挑戦でもあっただろう。相当な痛みであったはずだが、骨が折れたままギブスさえ無しで、骨折翌日から施術を続けた。

 

 

三宅は骨折直後に自分で自分の足を整復した。切れたりずれたりした筋繊維や血管、その他の組織を精密に元の位置に戻したのだ。充血して患部が腫れるまでの、怪我直後10分が勝負だと言う。その神業的ともいえる施術精度とその後の鍛練の甲斐があり、骨折後1年ぶりのレントゲン検診では「どこが折れたのか全く分からないほど完全に治癒している」と医師に言わしめた。

 

毎朝日課の四股踏み
毎朝日課の四股踏み

 

 

この行為をどう取られるであろうか。無謀だと、ただの無茶な賭けだと思われるだろうか。

 

三宅はいわば本気の負けず嫌いであり、心底好奇心が強い。端から見れば無謀のように思えても、本人に勝算のない賭けはしない。勝つように必ず持っていくだけの努力も惜しまない。ハラに由来し、ハラに帰依すると思うものへのあくなき探究と実践は他に類をみない。泉のごとく湧く閃きと理論と努力で、三宅の技術は成り立つ。他人の歩かぬ道を行くことが三宅の信条とも言える。開拓の人だ。

 

そう、この頃にはもう「腹揉み」ではなく、どこにもない「ハラ揉み」に技術は進化していたのだ。

 

 

 

 

遡って三宅のハラ揉みに至る経緯をお伝えしよう。

 

独立開業から2年後の2004年から2006年にかけて、「HANAKO WEST」や「日経トレンディ」らおよそ20社にも及ぶ雑誌やテレビの取材が殺到し、ゴッドハンドと持ち上げられた。半年後まで予約が埋まる状態が続き、身が粉となるほどに朝から晩まで休みなく施術し続けたという。

 

2007年、屋号を「わごいち」に変更し、中経出版より『おなか美人ダイエット』を著す。また、スタッフ教育を弟子制度に改め、腹揉み技術の伝承に着手した。来院者が増えるほどに症例も増え、難病指定を受ける病に悩む患者も増えていった。直すしかない状況だったのだ。三宅自身、望んだことであったろう。病に挑み、直すほどに北は北海道、南は沖縄まで、通院者は日本全国に広がっている。

 

2015年から1年間で10回、おなかの話が聞きたいとの多くの要望に応え、東京から熊本に及ぶ各地での講演会活動にも臨んだ。何でもまずはやってみるのが三宅の生き方である。

 

 

東京講演会の様子
東京講演会の様子

 

 

こうして「ハラ揉み」は三宅の手によって生まれた。日本の田舎に育ち、不便と理不尽の中で悩み、考え続けた青春時代を過ごした三宅が、日本古来から特別にされてきた大元のハラに着目したのは何の因果か。

 

 

三宅のハラ揉みを受けた方は感じられることだろう。ハラを揉む三宅の手は、ハラと鼓動するように動く。見えぬハラの中を手を通して見ている。

 

人間が生きる限りハラは果てなく脈打ち続け、三宅が生きる限りハラ揉みは躍動に溢れ、鼓動し続ける。

 

 

掛け軸にする信条を書く三宅
掛け軸にする信条を書く三宅

 

 

以上、文責 井上紙鳶

 


いかがでしたか?三宅が居る「わごいち」と「千照館」については以下のサイトをご覧ください!

 

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この記事を書いている人 -WRITER-

"お顔隠しておなか隠さず"『おなか美人ダイエット』著者三宅弘晃の弟子池田参尽です。弟子歴13年目。37歳。

おなか美人のつくり方を実践してリアルにボディラインが変わった張本人。25歳当時に悩んだ無月経も復活!!多くの悩める女の子の助けとなるよう面白く楽しくおなかのことを紹介します。instagram @sanjin ikeda

製作:おなか美人ラボ

監修:ハラ揉みわごいち 

 

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